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  C O L O R F U L     ...華流万歳!巨人軍万歳!なFalが国境と球団の壁を越えてとりあえず萌える部屋。

 <南京!南京!>日本公開決定

日本人は鬼畜なのか?人の心を持つのか?南京大虐殺を描く映画がついに日本で配給決定!
http://www.cinematoday.jp/page/N0019790


ずっと気になっていたリウ君主演映画が日本公開されることが決まりました。
中国では今年の春に公開され、1億元(14億円)というセンセーショナルな大ヒットを記録した映画です。

F2009042315192900560.jpg

しかし・・・このニュース日記を見ていると、「また中国人が捏造映画を作ってる」とか
単に虐殺があったなかった、何万人死んだと、根拠を並べて自分の主張をするばっかしで、
映画のことはそっちのけ~で・・・なんとも悲しくなりました。



F2009042216570300448.jpg nanjing1.jpg

ニュースを読んでもらえれば分かると思いますが、
陸川(ルー・チュアン)監督は4年の歳月をかけて莫大な数の日中双方の歴史資料や手記、
プライベート写真等を見たり、旧日本兵へのインタビューも交えながら
南京事件と向き合ってきたんです。

南京での民間人殺戮がどのくらいの規模だったかは結局推測の域でしか語ることができませんが、

彼らにとってそれが辛い事実であることは間違いないし、
監督やリウ君や他の中国人キャスト、スタッフが想像を絶する精神的苦痛を味わいながら、

それでも双方の視点に立って、出来る限り事実を伝えたいと作った映画なのです。


(※監督は撮影中何度も腸炎で倒れ、女優は情緒不安定になり発狂寸前だった)
http://j.people.com.cn/95952/6643437.html




それを単に都合のいい資料を引っ張ってきてズラっと並べて「捏造だ」ってよく言えるなぁ??
って思うんですが・・・・ (もちろん深く考察してらっしゃる方もおられますが。)


そもそも学者レベルではもう結論出てるんじゃないのかな・・・・・?
Falにはそなへんのことはわかりませんが、
とにかくそういう議論をこの映画と結びつけないで欲しいです。
純粋にこの映画を見てほしいです。




●ここに「南京!南京!」に関するニュースがまとめてあります。
http://j.peopledaily.com.cn/94478/96695/6642806.html

是非ともご覧頂きたい。



nanjing2.jpg nanjing3.jpg


●レコチャのニュースです。
リウ君が撮影中の苦しい胸の内を語っています。
「まだ完成した映画を見る気になれない。」

<映画「南京!南京!」>撮影中に日本人役者を無視、中国人俳優が心境語る
http://www.recordchina.co.jp/group/g31086.html
携帯からはコチラhttp://rchina.jp/article/31086.html



●レコチャの「南京!南京!」に関するニュース一覧。
http://www.recordchina.co.jp/search.php?mode=search&keyword=%C6%EE%B5%FE%A1%AA%C6%EE%B5%FE%A1%AA


nanjing4.jpg nanjing5.jpg


でも、南京問題が蒸し返されてるこの時期の公開決定はよかったかも?
mixiでニュース日記1500超えてるってけっこうな注目度だよね!!?
できるだけたくさんの劇場で公開してくれますように~~~


nanjing6.jpg
  1. 2009/09/25(金) 22:46:25|
  2. 劉(Liu Ye)|
  3. トラックバック(-)|
  4. コメント:29|
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Comments

えらいなぁ~

この映画を真っ正面から向き合うFalさんは偉いよ~。

私がよく行くこちらのブログさんも、きっちり向き合っています。よかったらどうぞ。
http://seaturtle.blog34.fc2.com/blog-entry-1229.html

私はこれを直視する自信がないかな。。。
いままで観た映画で、観たことを後悔し2度と観れないものがあります。
その1本が『火垂るの墓』
辛すぎて観れないの。
これもそんな予感がしてしり込みしています。

リウ君が「まだ完成したものを観る気になれない」という気持ちが痛いです・
でも、いつかDVDが出て勇気が出たら観ますね。
  1. 2009/09/26(土) 05:39:49 |
  2. URL |
  3. 小太郎 #9RDtIk.I
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君は偉い!

いい年の私や小太郎さんが尻込みしてるのに
娘と変わらんような(笑)Falさんが真っ正面からそれを受け止めようとしてる、うん、たいしたもんです!(*'-')

私もきっと・・無理だな・・見られない!
日本人としては見て考えなくてはいけないのでしょうが・・
そうだ!小太郎さんが見たら‥私も見ます|ω・`)
  1. 2009/09/27(日) 16:02:21 |
  2. URL |
  3. mayu #ffVU29mw
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いえいえ・・・

>小太郎さん

そんなに深く考えてませんです^^;
リウ君が出てなかったら、見てないでしょうし・・・

けろにあさんちの記事、読ませていただきました。
いやぁ・・・・私の言いたいことを見事に代弁してくださっていました!!
つくづく自分の語彙の貧弱さが情けないです・・・(汗)

『火垂るの墓』 は私も見れません・・・
何年か前にTVでやってたのを見ようとしたんですが、
始まって10分でまだなんにもないうちからもう泣モードに入っちゃって
結局チャンネル変えちゃいました。
でもあの舞台は実家の近所。
最後の三宮駅のホームのシーンは忘れられません・・・・知ってる場所だけに・・・
  1. 2009/09/27(日) 23:04:18 |
  2. URL |
  3. Fal #-
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とんでもございません!

>mayuさん

何も知らないから見ようと思えるんですよ~・・・
リウくんの映画だからってだけで
ただ見るのに少し知識が要りそうな映画だったので、
簡単にお勉強しただけです・・・

DVDがレンタルでも出てくれて、みんなに見てもらえたらいいんですけどね~~
  1. 2009/09/27(日) 23:15:36 |
  2. URL |
  3. Fal #oqkPALJc
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南京に対する世界的な誤解

南京大虐殺は世界的に誤解されています。

中核的な出来事は南京陥落時の城外における大規模な捕虜の殺害です。
父親(栗原利一)のスケッチブックでも7万余人と書かれています。
非戦闘時の7万余人の捕虜の殺害ですから、当然、日本陸軍が軍の組織として行なったものです。
捕虜の多くは蒋介石軍兵士などです。

ただ、中国側の言う30万人説は戦闘時の犠牲者も含めた数として合理的な数です。
昭和12年7月の南京の人口は135万人です。
11月末の人口は50万人で、これに南京防衛軍15万が加わった65万人が日本軍の攻撃に晒されました。

否定派の言う20万人は逃げ場の無い貧民の数です。
小平市の警察学校と小平団地を合わせた(昔の警察学校の広さ)10万坪の安全区に押し込められた貧民の数です。

(65連隊のシャーカンおける2千人斬首は父だけが日本側の証人です。名古屋市の河村市長は無知なだけです。「ジョン・ラーベ」は城内での出来事しか書かれていないので日本人には誤解を与えます。)

  1. 2009/11/06(金) 14:08:17 |
  2. URL |
  3. 核心 #V9C1Btf6
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>核心様

貴重な知識を有難うございます。

お父様のスケッチブックのことを少し調べさせていただきました。
それひとつに関しても膨大な見解があり、
私のキャパではひとつずつ資料を洗って突き詰めるわけにはいかないので
客観的に判断はしかねますが・・・

この映画を見るに当たって、もう少し勉強していく必要がありますね。
  1. 2009/11/07(土) 22:52:43 |
  2. URL |
  3. Fal #-
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森松俊夫氏の二度の犯罪

「森松俊夫 南京」でグーグルで検索して頂くと私と森松氏の関係が分かります。

森松俊夫氏は終戦時少佐で防衛研究所戦史部、偕行社などにおられた方です。
森松氏が2001年に東史郎裁判で勝った方法は以下のとおりです。

東氏に日記の原本を「平和のための京都の戦争展」に貸し出させ、後の裁判で証拠となるべき部分を抜き取らせ、それから名誉毀損裁判を起こしたのです。
東氏は、展に貸したところ証拠となる部分が抜き取られたと主張したのですが聞き入られず、最高裁まで行った敗訴しました。

なぜこのようなことが判ったかと言うと2006年に森松氏は父(栗原利一)のスケッチブックに手を出して失敗したからです。
その時の証拠は山ほどあります。

この森松俊夫氏の弟子が田母神氏なのです。
彼らは制服組の主流派だそうです。

ここいらを知ると(中国政府も日本政府も知っています)、なぜ拉致も解決できないか分かると思います。

さすが日本陸軍の生き残りだけあって、やることが薄汚い。
  1. 2009/11/10(火) 00:11:51 |
  2. URL |
  3. 核心 #JC3MzfCQ
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当時の「虐殺」の対象は日本兵

森松氏が犯罪を犯してまで葬りたかった東史郎日記の一文です。
当時は「虐殺」とは中国兵が日本兵に対して行なうことだったのです。

”我々が到着した時は、虐殺された死体があっただけである。...

...遂に数十人の敵は、伍長の頭に青龍刀を叩き付けた。
伍長は血をふいて無念のうちにたおれた。...

惨殺された三十七人の死体は、全く目を覆わしむる鬼畜の行為の限りが尽くされていた。
或る者は目をえぐられ、鼻を切り取られ、
或る者は生殖器を切断され、頭を砕かれ、足をもぎ取られ、腕を離されて、皆一様に衣類のすべてをはぎとられて素っ裸になっていた。”

  1. 2009/11/10(火) 03:35:57 |
  2. URL |
  3. 核心 #V9C1Btf6
  4. [ 編集]

戦史

結構知られているようなのですが、防衛研究所戦史部が南京を否定するのは、GHQのGSとG2の占領政策の違いから来ていました。

この戦史部OBで終戦時少佐の森松俊夫氏が2006年に親父(栗原利一)のスケッチブックの破壊工作を行なって失敗しています。
(この方は、偕行社にいた時に東裁判を計画された方でもあります。)

以下は「加害と赦し、南京大虐殺と東史郎裁判」の中の吉田裕氏の論文の抜粋です。

防衛研修所戦史室の源流

...この資料整理部の前身は史実調査部、さらには史実部であるが、一貫してその中心的地位にあったのは、元陸軍大佐の服部卓四郎だった。
服部は、タカ派で有名なGHQ参謀第二部(G2)部長の、C.A.ウィロビー少将の援助の下に、周辺に旧日本軍の幕僚将校を集めて「服部グループ」を結成する。
占領中から、秘かに再軍備計画の研究にあたっていたのは、このグループである。

一方、「服部グループ」は、史料整理部を中心にして、「大東亜戦史」の編纂にも、大きな力を注いだ。
この点について、二代目の戦史室長をつとめた島貫武治は、次のように書いている。

 史料整理部の陣容は俊秀をもって当てられ、服部卓四郎、...各大佐、...各中佐、...少佐等で、 わが国においても政府による正統の大東亜戦争史を編さんすべきであるとの願望を抱き、 史料の収集整理に努めるとともに、昭和二十八年には大東亜戦争全史四巻を世に発表した。

...著者は服部卓四郎となっているが、「実際は各戦域の作戦参謀級の幕僚が、分担執筆し、稲葉正夫(四二期、終戦時陸軍省軍務局軍事課員、中佐)がまとめたもの」であり、服部周辺の旧幕僚将校による合作だった。
そして、「後にこの整理部から多くの人が、貴重な史料とともに戦史室に転用され」、戦史室の中心を、これらの旧幕僚将校が占めるようになったのである。

...戦史室編纂の「戦史叢書」が、旧軍の立場を代弁する弁明史観的性格を色濃く持たざるを得なかった...

(皮肉なことに親父が65連隊だったものですから、服部氏が最後の連隊長を務めた65連隊の2万人の捕虜殺害が一番明確に事実が解明されています。)
  1. 2009/11/10(火) 03:39:17 |
  2. URL |
  3. 核心 #V9C1Btf6
  4. [ 編集]

戦史叢書と南京大屠殺記念館の差は占領政策から

結構知られているようなのですが、防衛研究所戦史部が南京を否定するのは、GHQのGSとG2の占領政策の違いから来ていました。

この戦史部OBで終戦時少佐の森松俊夫氏が2006年に親父(栗原利一)のスケッチブックの破壊工作を行なって失敗しています。
(この方は、偕行社にいた時に東裁判を計画された方でもあります。)

以下は「加害と赦し、南京大虐殺と東史郎裁判」の中の吉田裕氏の論文の抜粋です。

防衛研修所戦史室の源流

...この資料整理部の前身は史実調査部、さらには史実部であるが、一貫してその中心的地位にあったのは、元陸軍大佐の服部卓四郎だった。
服部は、タカ派で有名なGHQ参謀第二部(G2)部長の、C.A.ウィロビー少将の援助の下に、周辺に旧日本軍の幕僚将校を集めて「服部グループ」を結成する。
占領中から、秘かに再軍備計画の研究にあたっていたのは、このグループである。

一方、「服部グループ」は、史料整理部を中心にして、「大東亜戦史」の編纂にも、大きな力を注いだ。
この点について、二代目の戦史室長をつとめた島貫武治は、次のように書いている。

 史料整理部の陣容は俊秀をもって当てられ、服部卓四郎、...各大佐、...各中佐、...少佐等で、 わが国においても政府による正統の大東亜戦争史を編さんすべきであるとの願望を抱き、 史料の収集整理に努めるとともに、昭和二十八年には大東亜戦争全史四巻を世に発表した。

...著者は服部卓四郎となっているが、「実際は各戦域の作戦参謀級の幕僚が、分担執筆し、稲葉正夫(四二期、終戦時陸軍省軍務局軍事課員、中佐)がまとめたもの」であり、服部周辺の旧幕僚将校による合作だった。
そして、「後にこの整理部から多くの人が、貴重な史料とともに戦史室に転用され」、戦史室の中心を、これらの旧幕僚将校が占めるようになったのである。

...戦史室編纂の「戦史叢書」が、旧軍の立場を代弁する弁明史観的性格を色濃く持たざるを得なかった...

(皮肉なことに親父が65連隊だったものですから、服部氏が最後の連隊長を務めた65連隊の2万人の捕虜殺害が一番明確に事実が解明されています。)
  1. 2009/11/10(火) 03:40:43 |
  2. URL |
  3. 核心 #V9C1Btf6
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このコメントは管理人のみ閲覧できます
  1. 2009/11/10(火) 04:17:57 |
  2. |
  3. #
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>鍵コメ様

ありゃりゃ・・・消さなくても~^^;勿体ないです。

そもそも当初の書き込み自体がマルチポストまがいだったのでスルーしようか迷ったのですが、
ひとつの正当な見解であることは確かなので残しておきました。
今回もひとまず残しておきます。あんまり酷ければおいおい考えます^^;(イイノカソレデ・・・)

私が今勉強すべきは南京事件より先に<アジア冷戦史>・・・クリスマスまでにレポート書かなきゃ!!(--;
  1. 2009/11/11(水) 00:46:20 |
  2. URL |
  3. Fal #-
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スケッチ1

スケッチ帳NO27上段

鳥龍山(ウリュウサン)、幕府山(バクフサン)砲台。
白旗を翻し投稿する支那兵。1個分隊で46名か捕虜を降して連れて来た。
この時は敵が1人として抵抗するものがなく、
実に従順なものであった。が□し戦友が沢山戦死負傷させたのはこの敵と思うと
たた敵かい心にもいるのみであった。でも投稿者はすなをに受け入れて取扱った。
  1. 2009/11/18(水) 11:36:30 |
  2. URL |
  3. 核心 #V9C1Btf6
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スケッチ2

スケッチ帳NO27下段

(左上)
第1大隊兵長以下135名であった。(田山大隊)
その部隊に1万3、000名捕りょを降して
右に集めた敵の武装解除した兵器弾薬の山
我分隊は最後尾に終り右武器を石油をかけて
もして使用不能にした。

(左上2段落目)
50mおきに兵をつけて南京兵舎に向けて連行するところ。
兵隊が皆で135名丈けだった。田山大隊長。

(右下、山の絵脇)
兵器の山

(右下)
これは13,500余名の武器弾薬の山である。
栗原はこの処理を命ぜられ最後尾にて
部下と四方から一斉に火をつけてもして了った。
天をついて居った。
  1. 2009/11/18(水) 12:00:09 |
  2. URL |
  3. 核心 #V9C1Btf6
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スケッチ3

スケッチ帳NO28上段

下の廠舎で我が部隊において13,500名を3日間飼った。
食糧は鳥龍山砲台から馬で運搬して毎日カユ2食を食べさせた。
13,500と言ふ莫大な兵を飼うには一方ならぬものであった。
水さい与えることは出来ず、兵は自分でやった小便をのむものも居た。

(以下画中の文字)
      揚子江
              鳥龍山至
          池
 藁屋根の捕りょ収容所
  1. 2009/11/18(水) 12:07:41 |
  2. URL |
  3. 核心 #V9C1Btf6
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スケッチ4

スケッチ帳NO28下段

   揚子江
ここの中央の島に1時にやるためと言って
船を川の中ほどにおいて集めて、船は遠ざけて
4方から一斉に攻撃して処理したのである。
この時撃たれまいと人から人へと登り集るさま。
即ち人柱は丈余になってはくづれ、なってはくづれした。
(島流し)
その夜は片はしから突き殺して夜明けまで
その処に石油をかけてもやし
柳の枝をかぎにして1人1人ひきじって
川の流れに流したのである。
我部隊は13,500であったが
他部隊合わせて70,000余と
言って居られてた。
全く今考えて想像も出来ないことである。
  1. 2009/11/18(水) 12:16:09 |
  2. URL |
  3. 核心 #JC3MzfCQ
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スッケチ帳と「両角大佐手記」

なぜ、南京の捕虜殺害がバレたかと言うと父親(栗原利一)のスケッチブックと「両角大佐手記」の比較からです。

「両角大佐手記」は昭和36年に作成された、終戦時陸軍少佐の平林貞治氏と後に福島民友新聞社の論説主幹となる阿部輝郎氏の手になる歴史捏造資料です。
両角大佐のわずかなメモに平林氏と阿部氏が共作でデッチ上げたものです。
勿論、彼らはこの手記を元に30年以上にわたり、4作の歴史デッチ上げ本を書き上げています。

肯定派の連中はこの手記のコピーは大概の人が保持しています。
あまりにも親父のスケッチと内容が違うので、捏造がバレた、といった代物です。

私は左翼ではないのですが、左翼の連中はこれをまったく馬鹿にしています。
そういった代物です。
  1. 2009/11/18(水) 16:21:36 |
  2. URL |
  3. 核心 #V9C1Btf6
  4. [ 編集]

>核心様

スケッチブックのアドレスを載せて下さってありがとうございます。
陸川監督はこのような資料もご覧になったのでしょうか?
彼の手によって南京事件はどのように描写されているのでしょうか、公開が楽しみですね。
  1. 2009/11/21(土) 21:53:07 |
  2. URL |
  3. Fal #-
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南京の経緯

南京の経緯(他への投稿です。)

1.1937年(昭和12年)、南京陥落時に蒋介石軍が大敗し、敗残兵、投降兵など7万人以上が南京城外で殺害されました。
この事実は公にはされていません。
ただし、捕虜の数が殺害された捕虜の数の最大なので、捕虜の数以上の殺害は戦闘時の殺害です(中国側の30万人説など)。

2.1945年(昭和20年)、蒋介石が戦勝国に加わり、後の東京裁判でこのことが問題とされました。
日本側の責任ある地位の人の証言は一切ありませんでした(当然ですね。死刑になっていたでしょうから)。

3.1961年(昭和36年)ころから、福田篤泰氏や旧軍人がなどが中心となり、捕虜の殺害は自衛発砲であったという体裁の「郷土部隊戦記」が各地で発行されました。

4.1984年(昭和59年)、父(栗原利一)が捕虜の殺害は処分であったとの証言を行い、スケッチブックの一部が公になりました。

5.1991年(平成3年)、小野賢二氏の努力により父の所属した65連隊の2万人の捕虜殺害の状況が判明しました。

6.2009年(平成21年)、栗原利一の息子(私)により65連隊の下関での2千人斬首の状況が明らかにされました。

この間に、2001年の東史郎裁判と2003年からの百人斬り裁判があります。

日本のメディアに出ている情報は殆どが捏造派の情報なので、一般の人には理解できないと思います。
  1. 2009/11/22(日) 22:52:11 |
  2. URL |
  3. 核心 #V9C1Btf6
  4. [ 編集]

毎日新聞の記事より

(1984年8月7日付けの毎日新聞記事です。)

南京大虐殺に加わった元陸軍伍長が、半世紀近い沈黙を破り、当時のスケッチ、メモ類をもとに中国兵捕虜1万余人の虐殺を詳細に証言した。
 問題の捕虜大量射殺事件はこれまで上級将校の証言などから「釈放途中に起きた捕虜の暴動に対する自衛措置」とされてきた。
 今回の証言は、これを覆すものだ。
 上海から南京攻略、さらに徐州占領まで従軍、軍曹になって漢口攻略の途中、負傷して日本国内に送還された栗原さんは、昭和十三年暮れから療養生活中、従軍した戦闘の記録をスケッチブックにまとめた。
南京附近の戦闘に関するものは計六枚。
 昭和十二年十二月十三日紫金山東北の鳥龍山砲台を、翌十四日南京城北側の幕府山砲台を占領したところから始まっている。
 「第一大隊百三十五名で一万三千余捕虜を降し、敵を武装解除」。そして「島流し」と書かれたスケッチには虐殺の模様が詳述されている。
 「中央の島に一時、やる(送る)ためと言って船を川の中ほどにおいて、船は遠ざけて四方から一斉に攻撃して処理したのである。
 その夜は片はしから突き殺して夜明けまで、その処に石油をかけてもし、柳の枝をかぎにして一人一人ひきずって、川の流れに流したのである。
 わが部隊(が殺したたの)は13500であった。
 今、考えても想像できないことである」
 栗原さんによると、捕虜を殺したのは、十二月十七日から十八日の夜で、昼過ぎから、捕虜をジュズつなぎにし、収容所から約四キロ離れた揚子江岸に連行した。
 一万人を超える人数のため、全員がそろった時は、もう日が暮れかかっていた。沖合いに中洲があり「あの島に捕虜を収容する」と上官から聞いていたが、突然「撃て」の命令が下った。
 約一時間一斉射撃が続いた。見渡せる範囲の捕虜は必死に逃げ惑うだけで、水平撃ちの弾を避けようと、死体の上にはい上がり高さ三、四メートルの人柱ができた。
会津若松出身の第六十五連隊、両角部隊の捕虜収用は、占領当時、新聞で「大戦果」と報道され、総数は一万四千七百七十七人とされていた。
 その後、捕虜がどうなったかは報道がない。
  1. 2009/11/22(日) 22:55:38 |
  2. URL |
  3. 核心 #JC3MzfCQ
  4. [ 編集]

プロパガンダ合戦

根底にあるのは中国共産党と日本陸軍の生き残りのプロパガンダ合戦です。
当時の資料としては「東史郎日記」が第10軍の様子を詳細に記述してあります。
「南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち」が上海派権軍である65連隊の兵士の詳細を記述してあります。
私は個人的にまったく中立的な立場なので、私の意見はせいぜい肯定派亜流程度です。

この問題は半永久的に決着をつけることが不可能な問題です。
自衛隊の生みの親である旧日本陸軍の行なった軍事行為の評価なのですから、いまさら肯定することは日本政府には出来ないことなのです。
「日本陸軍が軍の組織として行なった大規模な捕虜の殺害」なのですから。

  1. 2009/11/24(火) 04:24:03 |
  2. URL |
  3. 核心 #V9C1Btf6
  4. [ 編集]

捕虜全員殺害か否か

学問的には既に決着が付いているといわれています。
南京陥落時の捕虜を全員、殺害したか否か、の問題です。
全員殺害した、という学者などを大虐殺肯定派といい、洞富雄氏、藤原彰氏、本多勝一氏、小野賢二氏、笠原十九司氏などです。

これを認めない学者を否定派(私が捏造派と呼んでいる人たちです。)といいます。
防衛研究所戦史部派といってよい人たちです。
グーグル検索で一目で色分けできます。
否定派は「日本陸軍の軍の組織としての捕虜全員殺害」を認めない、という人たちです。
日本「南京」学会に集合しています。
日本の保守勢力が簡単にわかります。
  1. 2009/11/24(火) 04:48:13 |
  2. URL |
  3. 核心 #V9C1Btf6
  4. [ 編集]

「記者の目」

1984年8月7日の毎日新聞の記事の後日譚です。
同年の9月27日付けの福永平和記者の「記者の目」からです。

1.記事に載った証言は、鈴木明氏の「南京大虐殺のまぼろし」や防衛庁防衛研修所戦史室の「支那事変陸軍作戦<1>」などの「釈放途中に起きた捕虜の暴動に対する自衛的集団射殺」という定説を覆すものだった。

2.元警察官の証言はその日のうちに、新華社が詳しく伝えた。
(一党独裁国家なので47年目の真実として、即日で全国に知られました。日本では戦史部と右翼が結託して反撃に出て、証言が否定されました。)

両サイドとも歴史的事実を知った上でのプロパガンダ合戦となっています。
ここいらの事情を知ると拉致が解決できない事情も理解できると思います。
否定派は確信犯なので議論をする意味は大してありません。
  1. 2009/11/24(火) 11:29:13 |
  2. URL |
  3. 核心 #V9C1Btf6
  4. [ 編集]

>核心様

結局は、学者レベルでは決着が付いているのを承知の上でのイデオロギー闘争、
という認識でいいということですね。(たいていの方はそういう認識だと思いますが・・・)

本文の記事にもチラッと書きましたが、
私としては、この映画をそのようなプロパガンダ合戦と結び付けることなく、
純粋に素晴らしい歴史映画のひとつとして
できるだけたくさんの人に見て頂けることが、いち中国映画ファンとしての願いであります。

自分も早く見たいです。
  1. 2009/11/24(火) 23:14:01 |
  2. URL |
  3. Fal #-
  4. [ 編集]

私は見る気は全くありません

私は中国映画は好きですが、日中戦争物は全く見る気はしません。
以前も書いたと思いますが、実際は「キリング・フィールド」の類ですから。
65連隊の下関(シャーカン)での2千人斬首は「さすがの揚子江も真っ赤になった。」、が父の証言ですから。

南京を扱った映画には必ず父の証言の「人柱」の場面が盛り込まれていると思います。

  1. 2009/11/25(水) 00:14:05 |
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私の一言から始まった問題

なぜ、南京論争が起きたかというと本多氏から父に電話があった時に私が「歴史的なことだから事実を正確に話しておいた方がよい。」と勧めたからです。
ただ、父が何を話したかは近年知ったことです。
私は戦前の天皇主権国家を否定するために南京の歴史を残したいだけで、単純に大虐殺があった、という立場ではありません。
南京関係で死刑になった5人については無罪論者です。

2千人を斬首したからといって、それは当時はただの軍事的行為にすぎないのです。
7万人もの捕虜の殺害を軍事的行為で出来てしまうのが戦前の国家体制だった、という立場です。

そもそも日本から南京大虐殺が消えた原因は朝鮮戦争により自衛隊が復活したからです。

これ以上は面倒臭いので将来は個人的に有料の講演会を開くことにしています。
  1. 2009/11/25(水) 07:38:09 |
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  3. 核心 #V9C1Btf6
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「ジョン・ラーベ」は誤解を与える

陸川監督の話で私が共感できたのは「ジョン・ラーベ」では、南京が描けないという点です。
欧米人は城内に足止めされていたので、捕虜の殺害の現場を目にした人はいません。
陥落時の捕虜の殺害は人目に付きにくい場所で実行されています。
自衛発砲というのは、その現場を部外者に見られた時のための事前に準備された言い逃れ理由です。

事実関係は日本政府も中国政府も把握しています。
日本で「ジョン・ラーベ」を公開しなかったことは正解です。
否定派は故意に「ジョン・ラーベ」を持ち出して城外での捕虜殺害を矮小化することもありますから。
  1. 2009/11/25(水) 11:40:10 |
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  1. 2019/11/22(金) 18:19:39 |
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